明智光秀が残した功績が凄い!!

明智光秀が残した功績が凄い!!

今までは敵として描かれることが多かった明智光秀を主人公として捉えるのは面白い試みですよね。
今回は光秀が残した功績をまとめていきたいと思います。

福知山の治水工事

福知山を流れる由良川と土師川の合流する地点は当時よく氾濫を起こしていたそうです。そこで光秀は1580年、城下の建設にともなって川の流れを変える治水工事を施したそうです。そのときに作った堤防が明智藪(あけちやぶ)と言われています。

現在の福知山駅付近まで蛇行して流れていたと推定される由良川に堤防を築き北向きに固定しつつ、堤防の前面には衝撃を和らげるための藪を設けたと言われています。
この堤防は歴史好きなら絶対に立ち寄る場所と言われているほどに知られています。

明智藪は終焉の地!?

紹介してきた明智藪は明智光秀が討たれた場所だといわれています。

本能寺の変後に羽柴秀吉により光秀が敗れ後に三日天下とよばれた中国の大返し。その時に落ち武者狩りに会い現在の京都の小栗で息絶えたと伝えられています。

まぁ多分そうではないかとゆう推測もあるようですが。

まとめ

実は今でも台風被害などに合うことがある京都府福知山市福知山市。その福知山の治水工事を取り組んだのは明智光秀が初めてとゆう話しもききます。
当時としてはかなりの大掛かりな工事ではなかっただろうかと推測できる規模です。

最初の1歩とゆうのは人材やお金の工面、特に近隣との意思疎通が大事なところ、その最初の足がかりを作った明智光秀は偉大な武将だったのではないでしょうか?

武田信玄なども信玄堤などが有名ですが、調べると羽柴秀吉、加藤清正、黒田長政など今でも名を残している武将とゆうのはそういった面での配慮などもしっかり行き届いているものなのだと関心させられます。

一昔前までは上司に逆らった不忠の武将などの位置付けでしたが、時代が変わり考え方も変わった今の時代は知将のイメージや領民に慕われていたといった逸話のイメージも強くなっていますね。自分のイメージとしては石田三成にも通じるものがあるのではないかと思っています。
何故信長を裏切ったか、実際に亡くなったときも落ち武者狩りではないなどの考察も人によって違いがあり、更に遡れば出生などでさえ謎が多い人でもあるのでドラマではどう描かれるか楽しみであります。

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